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2: それでも動く名無し 警備員[Lv.9][新芽] 2024/08/11(日) 13:04:08.43 ID:SIxXD0c90
一方的にお国に殺されただけやん


https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a7cbb72b397ca53459ae7213e82977fef84d5
防衛庁(現・防衛省)防衛研修所が編纂した『戦史叢書』(全102巻)をはじめ、連合国側の記録、さらには無名の元兵士たちが綴った数千冊の自伝や手記……。それらを突き合わせていくなかで、死は戦闘以外の要素が強いことが明らかになっていった。

「年次別の戦死者数を公表している岩手県のデータなどから推計すると、軍人・軍属の87.6%は1944年1月以降に亡くなっていました。問題はその死に方です。戦争ですから、多くの人は戦闘で命を落としたと考えるでしょう。でも、日本軍は1944年以降、戦病死者が多く、ある中国の連隊の史料では戦病死者が戦没者に占める割合は73.5%にもなりました。実際に全戦没者で見れば、この数字より多い可能性が高いです。その戦病死の中身も、栄養失調による餓死、あるいは栄養失調の果てにマラリアに感染というケースが多い。餓死の比率は61%や37%などの説があり、確定はしていません。ですが、おおむね半数が餓死者だったと言っていいでしょう」

<(一九四四年)四月ごろから急に栄養失調症が増えてき、栄養失調による死者、すなわち餓死者が出始めた。マラリアにかかると四〇度の高熱が出てそれが一週間ぐらいつづく。それで体力が弱まったところへ食糧がなく、極度の栄養失調に陥って、その後は、薬も食事も、ぜんぜん受け付けない状態になって死んでゆく──それが典型的な餓死のコースだった>(『ソロモンの陸戦隊 佐世保鎮守府第六特別陸戦隊戦記』)

前線部隊に軍需品が届く安着率は1942年の96%から、1943年は83%、1945年は51%に低下。山が連なるインドとミャンマーの国境地帯や、1944年3月からのビルマ(現・ミャンマー)のインパール作戦では死者が相次ぎ、日本兵の遺体で埋まった撤退路は「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれた。

ただ、日本兵が飢えていたのは、補給路が途絶えたからだけではなく、そもそも兵士の命を重視していない軍の方針があった。

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引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/1723349030/


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